The Institute of Electronics, Information and Communication Engineers


文理融合か文理連続か――定理と証明――

編集長 辻井重男

 ディジタル即アナログといえば絶対矛盾の自己同一めいた逆説になるが,本学会の会員諸氏が黙々と開発している,ミクロに見れば離散的なディジタル技術は,社会的構造というマクロな視点から見れば,至るところでアナログ化(連続化)現象を引き起していることにお気付きの方も多いと思われる.

 コンピュータとネットワークの浸透によって,これまで互いに離散的に存在していた,生産者と消費者,著作者と読者,放送と通信,政府と民間,公と私,社内と社外,事業者と個人,職場と自宅,仕事と遊び,政治家と国民,そして国家と国家,更には理工系と人文・社会系の学問分野の間…等々,業界,組織・領域や時空間の連続化が進み,社会構造の連続体仮説とでも呼びたくなるような法則が成立しそうな勢いが感じられる.

 例えば,放送と通信の融合が叫ばれて久しいが,単なる融合なら話は簡単である.融合ではなく連続化であることが,法律や社会制度に複雑な課題を投げかけているのである.CSデジタル放送として,インターネットと常時インタラクトしながら放送する蓄積型放送が近く始められる.このように,正に通信と放送が融合するシステムも増える一方で,従来型のテレビ放送や1対1の通信も大きな市場であり,続けることは間違いない.

 また,文理融合という掛け声も強まっている.確かに融合している分野も少なくないが,全般には理工系の学問と人文・社会科学が,融合ではなく連続化していると見るべきだろう.

 ところで平成8年度の会長を仰せつかったとき,私は本学会の方向性として電子化,国際化,社会化の三つを挙げた.電子化,国際化は当然として,社会化は耳慣れないといわれたが,これは語呂合わせのための私製造語である.我々の技術がこれほどまで社会の基盤となり,その構造を大きく変えつつある今日,本学会もより活発に社会,そして人文・社会系学問との接面を広げ,社会的発言力を高める必要性を感じたのである.

 小文では,文と理が連続化するときの二つの文化の相違から起る問題について考えてみたい.

 このところ,情報経済論に関する学位論文の審査員を依頼されたり,あるいは日本学術振興会の中で例外的ともいえる人文・社会科学系プロジェクト群をお預かりする立場(電子社会システム研究推進委員長)に立たされたりする中で,理工系と文系の研究成果に対する見方について考えさせられることが多い.

 一般に,理工系の学問は得られた成果,あるいはオリジナリティを明確に示せる場合が多い.数学に例をとれば,楕円暗号に利用される楕円曲線の性質についての志村・谷山・ヴェイユ予想は「楕円曲線はモジュラーであろう」と簡潔に表現される.20世紀中は解決できないと思われていたこの予想が,1990年代後半に解決され,その副産物としてフェルマーの大定理(予想?)も360年振りに解決されたことは記憶に新しい.しかしその証明は,何人もの数学者がチェックしなければ検証できないほど大変な作業であった.また,青色LEDの発光に成功するまでのプロセスは専門家にしか分からないにしても,結論は一般の人々にも分かりやすい.

 これに対して文系の研究成果は,概して,結論をいってしまえばどこかで聞いた話だなという場合も少なくないが,その結論に至るまでの思索の広さと深さや,状況証拠の多さによる説得性などにオリジナリティがあることが多い.したがって,証明そのものを読んでくれということになる.哲学を例にとれば,ある哲学者がミシェル・フーコーを解説するに際して,「第2次大戦後のヨーロッパの思想は,アメリカ経由で日本に入ることが多いが,その間にそれらの思想は大衆化されて分かりやすくなり,その分,底が浅くなる」と語っていたのが印象に残っている.アメリカはLow Pass Filterのようだ.もっとも数学と哲学の間には数理哲学という融合分野があるから,学問を簡単に整理することは不可能であることは言うまでもない.

 理工系の人間は,自らの成果を明確に表現できたり,社会に対する影響が直接的であったりして気が短くなっているようだ.我々が文系の人々と学際するとき,二つの文化の相違に対する配慮が必要であると痛感している.


IEICEホームページ
E-mail: webmaster@ieice.org