The Institute of Electronics, Information and Communication Engineers


独創性とは

電子情報通信学会誌Vol.82 No.5 pp.449-453

長尾 真

長尾 真:正員 京都大学

On Creativity. By Makoto NAGAO, Member (Kyoto University, Kyoto-shi, 606-8501 Japan).

1. は じ め に

 独創性について論じること,という課題を与えられた.独創性について論じた本や論文はこれまでにいろいろ出されているが,どれも,「それもそうだな」といったあいまいな気持ちを抱かせる程度のもので,完璧な説得力を持ったものはなさそうである.それも当然であって,独創性というのは他人の想像できなかった新しいアイデアを出すことを意味しており,これは本質的に予想できないことであることが要件となっているのであるから,それを予測的に論じるということは自己矛盾であり,本来的に不可能なことである.それにもかかわらず,独創性についてよく論じられるのは,何とかして独創性が発揮できるような環境,物の考え方を明らかにし,新しい発見をし,新しい物を作り出したいという希望があるからであろう.
 もともと無理なこのテーマを引き受けたのは軽率であったが,無理を承知で設定されたテーマで,余り堅苦しく考えずに書けばよいということであろうと考えて書くことにしたい.それにしても筆者は独創性についての研究者ではないので,体系的にこれを論じることは無理である.結局,自分の経験を交じえて,自分の考えている少しでも新しいことを試みるための心構えといったことを書くことにしたい.

2. 自分のやりたいことを持つ

 研究をしてゆく上において自分が興味を持ち,どうしても解決したいというテーマを持つことが最も大切である.一体これはなぜなのだろうかという驚きと,それに対する執着心,尽きぬ興味を持つということが第一の要件であると思う.あるいはまた,こんなことが実現できれば素晴らしいのだがといった,漫画「ドラえもん」のようなことに憧れを持ち続けるということであろう.
 企業などにおける研究開発では,通常解決すべき課題が与えられ,それについていろいろと研究をすることになるが,そういった場合でも,それが自分にとって面白い挑戦に値する課題であると思うようになる必要があるだろう.なんとなく機械的に仕事をしているといった態度では,とても良い結果は出せない.いろいろとイマジネーションを働かせて楽しい夢を抱くことが大切である.同じ時間を費やして仕事をするのに夢を抱いて楽しみながらやるのと,そうでないのとでは大きな差が出てくるのである.
 とにかく自分にとって面白いことでなければならない.そうでなければ自分のやっていることを他人や上司に説明するときに,相手に訴える力を欠き,その意義を理解してもらえないだろう.アメリカ人の研究者が自分の研究を他人に説明するときのあの迫力を想像してみていただきたい.心の底から,自分のやっている研究,自分の得た結果がこのように素晴らしいのだということを信じきって相手を説得する.
 現代は宣伝の時代であるという.自分の得た結果は素晴らしいのだから黙っていても他人が認めてくれるだろうといった考えは,もはや現代では通じない.あらゆる工夫をして他人に理解してもらい,その価値を認識してもらうということが必要なのである.このような状況を人は科学技術は言葉で作られるとか,声の大きい者が勝つといって皮肉ったりする.
 このような説得のエネルギーは一体どこから出てくるのだろうか.それは研究者が,これこそ自分にとって興味があり,他の人にとっても面白く有意義なこと(物)であるに違いないという熱中した確信を持つことによってしか出てこないだろう.

3. 主観的で,かつ客観的であること

 このような熱中した主観的な確信が人を研究にかり立てるという意味で船ESKTOP "荀テ&,持たねば一時的に他人を説得できたとしても長続きはしない.そこに自分のやっていることの客観的評価ということが出てくる.ただこの評価は研究を始める前,あるいは研究をやりながら行う必要があり,まだ他人に説明できる前の段階に行わねばならないから,これは必然的に研究者自身が行うことになる.自分のやろうとしていること,やっていることに対して客観的な形での自信を持つためには,それは他人がまだやっていないことであること,他人とは全く違った優れた方法であること,といったことを確認しなければならず,そのためには関連する他人の研究を徹底的に調べる必要がある.こうして自分のやっていることの独創性を自分で確信することが必要である.それがどの程度の独創性であるかどうかを判定することは非常に難しい.その結果ができるだけ多くの人にできるだけ深く影響を与えられるものであることが望ましいが,それは自分の専門領域やその中で取り上げた研究課題とも関係し,神のみぞ知るということかもしれない.独創性の判定は結果論だからである.
 いずれにしろ,他人の論文を読むというのは,自分のやりたいことがあってでなければ余り意味がないといえるだろう.他人の論文を読むのには三つの目的があると考えられる.一つは自分のやろうとしていることが,まだ他人がやっていないということを確かめること,もう一つは自分のやろうとしていることに,他人の成果で利用できるものがないかを探す場合,そして三つ目は一般的に自分の持つ関心領域の一般的・最先端的な研究の進展状況を知り,自分が新しい興味を持ち,やろうとするテーマを作り出すためである.日本の研究は多くアメリカの研究の後追いだといわれるが,それは日本の研究者が自分の本当にやりたいことを持たずに,アメリカの論文を余りにも多く,かつまじめに読みすぎ,それらの論文で取り扱っていることの落穂拾いをしたり,その変化形のテーマを研究したりしすぎる傾向があるからではないだろうか.
 他人の論文を多く徹底的に読むのはよいが,それを集中してやった後は,一切のそうしたものを離れ,それらの内容が自分の頭の中で十分に消化され,自分の血肉となるのを待つ必要がある.そうした状態の中から,ほかにない自分の発想,自分の本当にやりたい興味のあることがいやおうなくわき上がってくるのをじっと待つということが大切である.そうすればそのテーマは関連する他人の研究とはどのように違っていてどのように新しいか,どのような意味のあるものかが自然に説明できるものとなる.そういう状況になるためには辛抱が必要である.このように忍耐することによって,種々の条件のもとで,また種々の立場と方法論のもとで問題をどう取り扱ったらよいかを考えることができ,過去によく考えたことのある全く別の知識や方法と結びついて,予想しなかった突破口が開かれるといったことがあり得る.したがって簡単なことであるが,よく勉強し,よく考えることである.何の仮定も設けず,あらゆることがあり得るという立場で,心を空にして考えることによって思わぬ道が開けるのである.

4. 自然科学と工学の違い

 以前ある本で読んだことであるが,人文科学が自然科学のように進歩しないのは,人文科学は1個の人間の持つ他の人にない特色,その広さ深さを示すことによって新たな領域を切り開いていくことである.逆に前人の成し遂げたことの上に新しいことを積み上げていく自然科学には,あることを成し遂げた個人というものは現れない.早い遅いはあってもだれかが必ずいつかは同じことを成し遂げることになる.そこにはこの人でなければできなかったという人文科学における世界はない.そういった意味で,独創性というのは人文科学の世界にこそ正しくいえるのであって,論理的に発展してゆく自然科学は没個性的であって,私という人間がやらなくてもだれかがやるのであり,独創的ということとはいわば無縁のことであるといった論であった.
 この議論に必ずしも全面的に賛成するわけではないが,その意味するところは十分に理解することができる.ところで,工学には自然科学のような厳密な必然性というものはない.目的は同じであってもそこへ至る道,それを実現する手段は無数にあり得る.多くの選択肢がある中で,もちろん優劣がいろいろとあるだろうが,絶対にこれ以外にはないといった場合は少なく,少なくとも二,三の方法についてはほとんど優劣がつけられないといったことになる.したがって,そこに研究者の個性が生かされることになり,上記でいう独創性というものが発揮できると考えられる.そして工学の研究者は,この人でなければ実現できなかったであろうという研究成果の世界を作り上げることができるものと考えられる.自然科学では何々を発見した,何々を解明したということで,それを最初にした人に栄誉が授けられるが,工学においては,その人が達成したいわばトータルな世界が,他の人によっては作り上げることのできなかった個性と独創性にあふれる世界,一つの小宇宙であるということに対して栄誉を与えるべきであろう.芸術家が1個の作品で大きな賞を得ることは珍しく,個性的・独創的な作品を幾つも積み重ねて行った業績を背景にして,ある時点のある優れた作品に賞を授けられているのと似た考え方である.

5. 基礎研究について

 以前から,「研究ただ乗り論」というのがあって,日本は欧米の基礎研究の果実をとって,応用研究ばかりして製品に結びつけ,それを世界中に売りつけて,金儲けばかりしている国であると非難されてきた.そういった論に後ろめたさを感じたのか,最近では日本では基礎研究をしなければならないということが盛んにいわれるようになってきた.ところが基礎研究は役に立たない研究であって,役に立つような研究は応用研究である,といった考え方をして,重箱の隅をつつくような,全く意味のない研究をしている人が見受けられるのは,まことに惜しいことである.一方では,欧米では役に立たない研究をしていても意味がないとして,近年応用に結びついていく研究という観点を打ち出し,それらの方向に進んで行っているのである.
 研究は,まず物事の基本的性質を明らかにする第一次近似とでもいうべき研究の段階と,更に詳細に性質を解明していき,物事の全体を詳しく説明する第二次近似,第三次近似とでもいうべき研究の段階とがある.当然のことながら第一次近似の段階は大づかみに物事を見るのであるから簡単であり,これを欧米の人達はやってしまい,後は難しいのでなかなかやらず,別の世界の研究に移ったり,別の世界を意識的に設定したりして,そこで第一次近似的な研究を行っているとみることもできるだろう.
 これに対して,日本人は難しいことに取り組むことが好きで,第一次近似のような当り前の世界のことには余り興味がなく,それらに対しては余り高い評価を与える気にはならないので,第二次近似,第三次近似の世界の研究に取り組むのである.この世界の研究は当然のことながら第一次近似の世界の研究に比べて非常に難しいが,非常に大切なものである.
 第二次近似,第三次近似の世界は応用研究であるというものではなく,第一次近似の研究とともに,これもまた基礎研究なのである.そして第一次近似の基礎研究よりもはるかに難しい基礎研究なのであり,ここにこそ人材と資金を投入し,長期にわたる研究を行うべきであると考えられる.ある具体的な物を作ろうとする場合には開発研究を行わねばならないが,そのために応用できる研究成果を得るための研究は基礎研究なのであり,それはこれまで述べて来た第二次近似,第三次近似の世界の研究なのである.日本人はこの分野で非常に多くのことを成し遂げてきた.そういった観点から,我々は大きな自信を持たねばならないし,それはもっと世界的に評価されるべきことなのである.工学における基礎研究は特にこのように位置付けて,健全な基礎研究を今後とも積極的に進めるべきであろう.欧米もようやくこの領域の研究の重要性に気付き始め,政策的に動き始めているのである.
 直感性:情報の本質が直感的に知覚でき,自然な操作を誘導する情報表現.直接操作感:操作と表現が一体となり,操作結果を即表現に反映するなど,利用者の思考の連続性を崩さない高レスポンス性の実現.また,利用する人が想定する範囲の操作の自由度を提供する自在性.
 親しみ,魅力:把握,操作に経験,知識が生きる環境.戸惑いなくすぐ使え,利用する人に自信を持たせる.また,情報が自分のところにあるという物質的な所持実感,利用跡に相当する印が残るなどの「自分のもの感覚」が提供できるなども重要である.さらに,操作意欲を引き出すデザイン,機能設計上の魅力なども大きなポイントである.

6. 研究テーマの転換

   これまでの学問・研究の歴史において,独創的な研究成果を上げたものの中には,その人がもともとやっていた研究分野でなく,途中から新たに転向してやり始めた研究分野において出した研究成果というものがかなりあるように見受けられる.自分の経験でもそうだが,一つの分野において研究を始めると,初めのうちはどんどん良いアイデアが出てきて成果が上がってゆくが,10 年もするとその分野において解決できることはほとんどやってしまったという状況になる.そこで新しい分野に乗り出してゆくかどうかが研究者の生命の分れ目となる場合が多いのではないだろうか.自分のそれまでの研究の蓄積からいつまでも離れられず,かといってその研究分野にはとてつもない難しい問題ばかりが残り,いつまでも悩むのみといった状況に陥ってしまう危険性があるのである.
 これに対して,それまでの経験を携えて,それまでの研究の周辺分野でなく,もっと離れた新しい分野に飛び込んで行く勇気を持つことも大切である.その新しい分野がまだだれも研究していない分野の場合は,それが研究分野として重要であるということを他の人達に認識させ,研究者を増やすところから始めねばならず,そのためには,目を見張るような研究成果を出す必要がある.そういった新しい領域形成こそはやりがいのある仕事ではある.
 その分野が既にある程度研究されている場合は,その人達がやっている方法論の後追いをしてはならない.それでは新しいことは難しい.そうではなく自分が獲得してきた過去の経験からその分野の問題を眺めてみるのである.これはいわば素人の目で新しい分野を眺めるということであり,そうすることによって既にその分野で苦労してきた人には見えない多くの問題が見えてくる.どうしてこんな単純な素人的な疑問が気付かれずに放置されているのだろうかとか,こんな問題は当然こうすべきではないかといった疑問や驚きが発見される.これを大切にして,その分野のこれまでの研究成果を詳しく調べることによって,それらの問題に対して新しい独創的な成果を出してゆけるのである.こういったことが,分野を転向した人から良い成果がしばしば出る理由であろう.アメリカではトップダウン的にある研究分野への研究資金を止めたり,新たに出し始めたりするが,研究者はそれによって,いやおうなく研究分野を変えてゆかざるを得ないという環境におかれている.それがかえって良い研究成果につながっていっているのは,このような理由によるものと思われる.
 なお,研究領域を変えたからといって,前の研究領域における難しくて解決できなかった問題を放棄してしまうのではない.10 年,15 年すれば研究の環境条件は随分変るし,関連領域の研究も進展しているから,ある時点で再度挑戦すれば昔解決できなかったことが解決できることもあるのである.物事に執着すること,あきらめないことが大切である.

7. 他人の真似はしない

 京都大学教授中西輝政氏はその著書「国まさに滅びんとす」(集英社,1998)の中で,イギリスは他国の真似をしないというジェントルマンシップによって大英帝国の力を今日までつないで来た偉大な国であると述べておられる(その他,多くの我々科学技術者にとっても参考になることが書かれている).私はこれまで「他人の真似はしない」ということとともに,自分がやっている研究領域に多くの人が参入してきたら,「なにもその人達を押しのけてまで自分がその分野の研究をやる必要はない.その人達に後はお任せすればよい」という考え方でやってきた.だれもやっていない未知の分野でやるべきことはいくらでもあるのである.そうした道を選択してゆくのは,ある意味では孤独でさみしいことである.しかし,研究というのはそういったものであろう.孤独を恐れていてはろくなことができないのではないだろうか.
 ただ,新しい未知の分野で取り組むべき課題をどのように発見するかは,それほど簡単なことではない.広い視野のもとに常に種々のことに関心を持ち,自分から出て行って違った分野の人達と広い議論をする努力が要求される.そうすることによって自分の興味を引く課題が浮び上がってきて,それに対して精神を集中して考えることが必要である.
 また一方では遊び心も必要である.ロマンを追うのである.セレンディピティと呼ばれるのはそれに関係がある.自分の中心的な研究だと思っていることがそれほど評価されず,そこから出てきたバイプロダクトやそこから遊びでやったことが,世の中から高く評価されるということを経験された方も多いだろう.そこに意外性,独創性が潜んでいるからなのではないかと思われる.そして,それは他人の真似ではないものだからである.

8. お わ り に

 独創性,独創性と余りいわずに,現在の日本において,自分の置かれている場において,何をすれば日本のため世界のためになるのかということを,自分の損得抜きに客観的に考えれば,自ら自分のやるべき研究課題が明らかになってくるし,それをまじめにきっちりとやり遂げてゆくことが大切なのではないだろうか.独創的といわれるのは結果を見ての話であって,やり始める前からそればかりを意識していても,必ずしも良い結果は得られないだろう.いずれにしてもこのテーマは難しい.


ながお まこと
長 尾  真(正員)
昭 34 京大・工・電子卒.修士課程修了後,昭 36 同大学・工・助手.講師,助教授を経て昭 48 教授.文字認識,画像処理の研究を行い,一方で日英語間の自動翻訳の研究を中心とする自然言語処理の研究にも従事.平9京大・工学研究科長・工学部長,同 12 月より京都大学総長.


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