■誤り訂正符号と通信路符号化


〔辻井〕
 それでは,岩垂先生.


〔岩垂〕
 私が初めてシャノン先生の理論に接したのは,昭和34年に東大の瀧研究室に所属して,そこで瀧先生が「A Mathematical Theory of Communication」をセミナーの題材として使われたことがかかわり合いのはじめになったわけです.同時に,多分,計数工学科で行われていた喜安先生の授業にもまいりました.実はあれは学部の講義だったのですが.

 後で符号理論の方にかかわるようになりましたが,1948年の「シャノンの理論」の中の「通信における符号化定理」というものの証明にランダム・コーディング・バウンドを使ってやってある.それに対して符号化の具体的な方法を与えたのは,1950年のハミングの符号だと思うのですが,こちらの方は必ずしもシャノン先生の理論を追いかけようとしたのではないらしくて,ハミングは数学者で五次方程式を解こうとして,当時ベル研にあったコンピュータを使っていたら,途中でエラーが生じていつまでたっても計算が完了しないので,それに腹を立てて「間違いがあっても計算を続行するようなコンピュータを作ろうと思ってハミング符号を発明した」という記事を読んだことがあるのです.

 そうすると,確かにランダム・コーディング・バウンドで証明された雑音のある通信の符号化は非常に深遠な定理で,我々は実現するのに後からさんざん苦労してきたわけですが,その符号化の具体的な方法論を初めて与えたハミング符号のモチベーションはむしろシャノン先生の定理ではなくて,今でいうフォールトトレランスだったのだなと思うのです.

 MITに留学したときには,実際にシャノン先生のセミナー形式の講義に出たこともありますし,廊下でシャノン先生とすれ違って全然気がつかなかったことなど,私のKey Paperに書かせて頂きましたが,それから日本に帰ってまだ自分は符号理論をやろうか,もう少し別のことをやろうかと迷ってまして,瀧先生に「おまえは符号理論をやれ」と言われて,バースト誤り訂正畳込み符号をやったというのが実際だったわけです.私にとってみるとシャノン先生というのは非常に深遠なる目標を最初に与えてしまって,それが余りにも高いところにありすぎて,我々下々の者ははるか下の方でうろちょろしていたという感じで過ぎたというのが私の持っている感覚です.

〔辻井〕
 BCH符号で,僕は岩垂さんから聞いた話をいつも学生に言うのですが,最初は「BC」と言っていたのが,後からHocquenghemが入った.しかし,本当は1年早かったんだという,それを見ていたので,やはりこれは英語で完膚なきまで書かなければだめだという話を聞いたのです.


〔岩垂〕
 それではちょっとお話しします.私のクラスメートにベールカンプ(Berlekamp)という男がいまして,この人は大変な秀才でして,「ハフマン符号」のハフマン(Huffman)先生のスイッチング理論の講義の何かの問題で,「この問題はまだ解けていない」ということをおっしゃったら,Berlekampがその日のうちに解いてきてしまったということがあるのです.本当に驚いて「なんともすごい奴がいるな,こういう人たちに対抗するには一体どうしたらいいか」ということが,それからずうっと頭の中にあったのです.そうすると,彼らは,論文を英語で書かなければ絶対に認めてくれないことに気がつきました.だから一にも二にも英語で論文を書かなければならない.まあ,まず,いい仕事をしなければいけませんが(笑).ですから,私が東大に提出したドクター論文は実は英語で書いたのですが,今から思うと実につたない英語で恥ずかしいのですが,なぜそうしたかといいますと,MITの私の先生のガラガー(Gallager)先生とかそういうところに全部送ろうと思ったのです.マッシィ(Massey)先生も多分同じようなことをやっているのではないかと思っていたら,やはり同じようなことをやっていたということが後で分かりましたので,やはり英語で書いておいてよかったと思いました.


〔辻井〕
 ちょっと戻りますが,先ほど言われた「ハミング符号」は1950年なのですか.


〔笠原〕
 50年ですね.


〔有本〕
 50年に論文は出ているけれども,シャノンのBSTJの論文にはもうちゃんと書いてありますね.「ハミング符号」のことは48年に知られていた.


〔笠原〕
 4月号です.


〔有本〕
 それは後で書いた.だから48年にはもう周知だった.戦争中に大体,もうベルの中では分かっていたんでしょう?


〔辻井〕
 次に,笠原先生.




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