The Institute of Electronics, Information and Communication Engineers


2010年,ある学会役員の思い

通信ソサイエティ会長 青山 友紀

 2010年5月,エレクトロバイオインフォマティックコミュニケーション学会(ちょっと長すぎ)の総会が終り,新任の役員に選出された梨野元は今後の活動の方向について思い悩んでいた.近年学会を取り巻く状況は厳しさを加えている.学会の重要な役割の一つは新しい研究の成果を論文として発表する場を会員に与えることにあり,その学会の論文誌に採録されることが研究者の目標になるのが優れた学会の証であった.しかし,近年論文はcitationがどの程度あるかで評価され,優れた論文はcitationの可能性の高い米国の学会論文誌にどんどん流れていた.しかも大学も国立研究所も独立法人となり,その活動がimpact factorで評価され,それによって予算配分も査定されるので日本語の論文はどんどん減少していた.研究者達は最もホットな情報はその専門分野のメールグループに参加して得ていた.そこには論文誌に投稿する前の今生まれたばかりの情報にあふれていた.しかもそこでは世界的に評価された研究者達が,大会や研究会に参加するよりはるかにエキサイティングな議論を頻繁に行っていた.一流研究者達は自分の研究領域の優れたメールグループに参加することが必須であった.こういう状況で本学会の論文誌,大会,研究会はこれからも会員の役に立っていけるのだろうか,と梨野元は考え込んだ.

 学会のもう一つの重要な役割は論文投稿はしないが,その学会から情報を得るために参加している会員に価値のある情報を供給することにある.しかし,商業情報誌は激烈な競争を生き抜き,技術者に魅力的な情報を素早く提供していた.そういう情報誌だけが生き残っていた.企業の技術者達は世界の名のあるビジネスショウやエキジビションに参加し,技術動向をつかもうとしていた.それらに参加していないと発言が社内やユーザから信用されなかった.新技術の商用化されるスピードが速くて彼らは学会活動をする暇がなかったし,してもあまり評価されなかった.梨野元は思った.ビジネスに追いまくられる彼らに学会は何ができるだろうかと.

 多くの学会は会員の減少に歯止めがかからなかった.若年者の減少,理工系に進む学生の減少,そして学会に加入する比率の減少が重なり,様々な施策を打っても会員増には結びつかなかった.高度成長時代に次々に誕生した学会の中には合同して会員数を維持し,運営経費の削減に取り組むところが多くなっていた.会員の減少は日本だけではなかった.あらゆるものがグローバル化する21世紀にあって,学会だけがその埒外にいられるわけはなかった.世界の研究者は米国の学会に加入し,まず英語圏の学会が,更に先進諸国の学会はそのレゾンデートルが問われるようになった.経済と同じように学会も米国の一人勝ちの様相を呈していた.しかも米国学会は会員増に安住せず,率先してITを学会活動に生かし,会員のために矢継ぎ早に新しい施策を打っていた.そこの役員は就任するとまず任期中にどんな新しい施策を行うつもりかを明らかにし,逐次その経過を報告しなければならない.事務局はその提案について最大限の協力をし,またしないとそこに在籍することはできなかった.その学会はどんどん巨大化し,この分野の学会は世界で一つに集約されるのかと思わせる勢いであった.梨野元は思った.彼らに対抗するにはどうしたらよいのかと.

 梨野元は20世紀の最後の10年からこの方,既存の制度や仕組みに大きな軋みが生じ,それ以前には磐石と思われた枠組み,組織,会社,機関があっけなく瓦解していく様子を見てきた.この10年から20年で確かに基本的なところで人類社会の何かが変ったのである.その変化に気付かないもの,気付いても何もしないもの,が消えていったのであろう.学会はその変化を意識しているか,意識したとしてもそれで何をしているかと梨野元は自問した.

 彼は考えた.学会は情報誌ではない,学校でもない,資格認定機関でもない,標準化機関でもない(米国学会には強力な標準化機能があるが),もちろん趣味のサークルでもないし,他人に奉仕するボランティア団体でもない.学会の力の源は情報発信能力,それも他人の情報ではなく自分達で(会員の総体として)クリエイトした情報の発信能力ではないか.あらゆる分野で2番手や2流が存在できない21世紀にあって,米国学会に勝る情報を発信できるか,その情報源となる会員群をどれほど獲得できるか,すべての分野で彼らに対抗するのは無理だとしても,幾つかの分野でそれを保有できれば世界はあの分野では本学会の情報が面白いぞ,と認識するだろう.そうすればアジアを中心とした外国会員を獲得することもできよう.日本には世界に負けない研究分野がある.まずその分野の第一線研究者,技術者が本学会で自由に活動し,世界に情報発信する環境を整えることが生き残る道ではないか.どうしたら彼らをその気にさせられるのか.日本発の一流メールグループを育てられないだろうか.世界の研究者が読みたがる,優れたreview paperをどんどん掲載できないだろうか.学会の保有する知識の総体(すなわち会員の有する知識の総体)を有機的に結合し,リンクを張り,それにアクセスしやすいポータルサイトを構成して,新しい技術の検索にはまず,学会のポータルに連れてくることはできないか.論文投稿するとまず学会サイトに掲載され,会員はだれでも閲覧しコメントする機会があり,査読者はそれらも参考に査定し,アクセプトされたら論文誌に掲載してはどうか.これによって優れた論文は素早く会員の目にふれ,全会員の目にふれる可能性のためにレベルの低い投稿は抑制され,査読が一方に偏ることも減るであろう.ただし,これは民主的多数決の査読であってはならず,あくまで採否の権限は査読者と編集委員会になければならないであろう.外国からの投稿を増やすため,ITを徹底的に活用して編集経費を削減し論文投稿料を無料にできないか.

 学生会員はこれからますます貴重となる.いっそ学部,修士までは会費を無料にしたらどうか.ベンチャー企業のトップに大会や講演会で講演を依頼することはよく行われるが,彼らと学会の連携の道はないのか.米国学会は会員多数にメリットがあると思えば,一企業と手を組むこともアンフェアーと思わない.本学会ももっとドライに企業と連携することで会員に貢献する道はないか.

 梨野元にはいろいろなアイデアが浮かんでは消え,消えては浮かんできたが,どれから手をつけたらよいのか分からなかった.ただ,これらの幾つかでも実現できなければ2020年にこの学会が存在しているか危ういという思いだけは強かった.


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