〔甘利〕
 日本の大学で情報理論の講義が初めてあったのは,東大の数理コースであった.そのときの講師は喜安先生で大変面白い講義だったのですが,ちょっと難しかったです.

 大学院に入ってからドクターのころに何となく信号とか情報とかいう関係の仕事をやるということになって,そのときに読んだ本がシャノンの「A Mathematical Theory of Communication」で非常に明快でちょっとびっくりしました.

 その中で私が興味を持って,ちょっと驚いたのは,要するに情報の量を議論するときは結局は全部エントロピーに帰着するわけで,そのためにサンプリング定理みたいなものを道具として使うわけです.そういうことで信号の空間を考えると,その次元はインバリアントではないということをいっているのです.

 それでは,信号空間の次元がインバリアントではないのだとすれば,信号の持つ空間の幾何学的な構造はどういう役割を果たしているのか.そういうことに興味を持ったのが,いわば私の信号の幾何学的理論の出発点だったのです.もちろんサンプリング定理はシャノン,染谷,コテルニコフ(Kotel'nikov)という人たちがずっとやっているし,数学者はもっと前からやっているわけですが,ああいう情報というかかわりで,ああいうことを明確に述べて議論したという,非常に大きなインパクトがあった.

 その後,私は直接に,いわゆるシャノン理論に直接にかかわる仕事は余りやっていないのですが,陰に陽にシャノンのすばらしい考え方は私を情報幾何へと導いてきていると思っております.


〔辻井〕
 それでは,有本先生.


〔有本〕
 私は,学部は数学を出たのですが,1959年に沖電気に入って,コンピュータの開発をやっていたのですが,門前の小僧で通信に興味を持つようになった.

 そのころ,喜安,室賀の「情報理論」という本が岩波の「応用数学講座」で出ていたのです.それを目にして「ああ,面白いものがあるな」と.

 それと同時に,1960年にコンピュータのコアメモリの開発に関連して,ポロポロとビット落ちが起るので何とかしろというので,その本からハミング符号を知った.しかし,独自に考えて,それが今でいうリードソロモン符号だったのですが,日本語で論文は書いたけれどもだれも注目してくれなかった.

 私は実は数学者としての才は余りないと思ってあきらめて企業に入ったのですが,企業に入って分かったことは本当は工学的センスが自分にもあるということ,実は符号を発見してかつシャノンのいろいろなやり方を見ていると,自分でもできるというのが一つの支えになって研究をやり出したわけです.

 私はそこから東大に行って,実は制御理論でドクターをもらって,そして行ったのが阪大で,機械工学の先生をやりながら情報理論の仕事をしていたという,二股をかけていた時代が十何年も続いたわけです.

 私はシャノンの理論は追いかけたけれども,偉大なるアイデアと発見はシャノンがほとんどやっていたので,後から追いかけても余り大したことはできそうもない.シャノンは,ロボットは趣味で作ったけれども,ロボットにインテリジェンスを付与させていくそのからくりと理論は一切やっていないのだから,その理論を自分がやったらもっといいことができるというふうな,そういう二股追いが常に私の過去の研究の中で行ったり来たりしていたというのが実情です.

 そういう意味でシャノンと非常に深くかかわってきて,いつもシャノンを目標にしていたと言えると思っております.


〔辻井〕
 謙遜されましたが,「IEEEの Information Theory の Best Paper Award」を受賞されたのはいつですか.


〔有本〕
 1974年ですが,論文は1972年で,実際のかなりの仕事は1960年代の末ごろなのです.

 そのころは,大阪大学の基礎工学部の機械工学科の助教授をやりながら情報理論の論文を書いていた.ですから,一人で全部こつこつやっていて,論文は,機械工学科に所属すると日本の学会誌に出せないから,さっとIEEEに送ってやっていた時代があったのです.




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