筆者にとっては,シャノンはいつも憧憬の人であった.初めてエントロピー関数や相互情報量を知ったとき,その美しさに感心する方が勝って,エントロピーが符号系列の平均長の限界を与えることの工学的意味を強く意識できなかった.現実に,1960年前後,通信路符号化定理の示す技術的意義を理解できた人は日本では何人いたのだろう.にもかかわらず,1960年代には,日本ではシャノン理論の研究は早くも終ったといわれた.情報通信の技術者や研究者はパターン認識に移り,符号理論の研究者(当時数人程度か)が残っただけであった.通信路符号化定理の証明を自らチェックし,伝送ビットレートを下げることなく,符号化によって通信の精度を幾らでも高められることを確信し得たならば,これが究極のIT(情報通信)革命につながることを予感し得たはずなのに.

 筆者が通信路符号化定理の周辺のテーマを本格的に研究し始めたのは1960年代の後半からである.当時,大阪大学基礎工学部の機械工学科に所属し,専門は「機械制御」であったが,学園紛争に巻き込まれ,登校できなかった期間はむしろ情報理論の研究に集中できた.他方,シャノンが1950年前後にマイクロマウスの原型となる迷路探索ロボットやチェスを実際にさすロボットを作っていたことを知ったのも1960年前後である.機械工学科の教授に就任したとき(1973年),迷わずに研究室のテーマにロボティクスを選ぶことができたのもシャノンへの憧憬からきている.

 1978年に第1回の「情報理論とその応用」に関する泊まり込み形式の研究会を大阪大学周辺の有志で開いた.これは学会によらず,ボランティアの手弁当で組織したシンポジウムであるが,今や盛大になり,日本の情報理論研究を支えている.

 憧れの人,シャノン博士には1985年11月の第1回京都賞の際に会えた.基礎科学部門の最初の受賞者であった.受賞を祝って,シャノン博士を囲んだ特別企画の情報理論ワークショップが開かれ,その前後に私的に話をすることができた.シャノン自身の講演は,門外不出であった8mmフィルムの上映を中心に行われた.そこには,産業用ロボットが造られる以前に,チェスの駒をピック・アンド・プレースするロボットアームが映っていたのである.講演はジャグリングロボットに及んだ.

 1990年ミシガン大学で開かれたIEEE ISITにおいてもう一度シャノン夫妻に会えた.半日をかけてフォード博物館を訪ねたとき,一緒のバスに乗ることができた.シャノンは発明王エジソンの遠縁に当るが,そこにはエジソンゆかりの発明品も幾つか陳列されていた.家族に取り巻かれ,静かに巡回している様子と,バンケットで紹介され,拍手を受けて手を挙げられた姿がいまだ目に焼きついている.



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