(2) グローバルなIPネットワークと米英の国家戦略

 ところで,既述のごとく日本(NTT)が商用化世界初を果たしたIPv6への移行に伴い,また,(簡易型アクセスにとどまるにせよ)iモードやLモード等のパソコン非介在型インターネットアクセス(特にiモード)が世界的に注目される中で, 忘れてはならないことがある.すなわち,とかく草の根的と評されるインターネットだが,その根幹には非常に不透明な米英の影が存在する,という事実である.ドメインネームに関するICANNという組織の不透明さもさることながら,「グローバル・ティア・ワン」問題と,いわゆる「USセントリック問題」の二つに,ここでは言及しておこう.

 「グローバル・ティア・ワン」とは,インターネットを用いたグローバル接続に基づきビジネス展開をする上で,その元締めたる米英数社がトップに君臨し,ある種の支配をしている,という事実である.その米英5社中には,その後倒産したものもあるが,イギリスはC&W社であり,IBMとともにNSF (National Science Foundation: 全米科学財団)ネットの管理・運営の中核にいたMCIをめぐる買収合戦の中で,なぜかC&W社がMCIのインターネット接続部門を引き継ぎ,「グローバル・ティア・ワン」の一員となった.その経緯についてはアメリカの反トラスト法が関係するが,アメリカの反トラスト当局は,極めて不自然なことに,「グローバル・ティア・ワン」の不透明な活動自体は,不問に付したままである.そこに,英米一体となった国家戦略が見え隠れしていることに,注意すべきである.

 他方,「USセントリック問題」の方は,既にITUでも議論されている問題だが,インターネットユーザの世界的な急増による設備増設コストを,アメリカが一切払わず,他国の側のみに押し付けている,という事実である.理由はいかにもアメリカらしく,アメリカはインターネットの世界の中心であり,他国の側から勝手にアメリカにアクセスするのだから,そのために必要な設備増設コストは,もっぱら他国が払え,というものである.

 いつまでアメリカが,インターネットはアメリカのものだと言い張ることができるのか.その答えも,フォトニックIPネットワークに関する技術革新が引き出してくれるであろう.だが,我々は,インターネットがアメリカの国防上の理由から発生してきたという厳然たる事実(史実)を踏まえつつ,自らが覇権国家の政策決定者であったと仮定し,種々のシミュレーションを試みるべきである.ビジネスオンリーでも,技術オンリーでもない,もっと大きな国際政治的文脈で,今後も語られざるを得ないのが「インターネット」なのである.そのことを忘れてしまうことは,それ自体,非常に危険なことである.

 (3) 認証機関(CAs)のグローバルネットワーク化と「社会安全」の視点
 1999年12月,ITUの内海善雄事務総局長自身のイニシアティヴで,「電子署名・認証機関に関するハイレベル専門家会合」が,ジュネーブのITU本部で開催された.特に,21世紀情報社会における「認証機関(CAs:Certification Authorities)」の有する社会的・経済的重要性に鑑みて,ITUとしての国際貢献をいかに行うかが,内海事務総局長の基本的関心事であった.だが,そこで同時に,内海事務総局長が,インターネット及びeコマースについて,「すべての人々,そしてすべての国々のために」,との目標を明確に掲げていたことに,我々は最も注目すべきである.まさに,本号の特集のタイトルにある「人類の幸せのために」,との考え方である.そしてそれは,既述の「沖縄IT憲章」・IT基本法の基本理念とも,みごとに合致するものであった.

 ちなみに,この内海事務総局長の至当なる考え方に共鳴しつつ,旧通産省(現経済産業省)は,WTOでのeコマース関連の論議のために,“eQuality Paper”と称するペーパーを提出している.「人々の平等」,そして(サービスやそれを通して実現されるべき)「生活の質(Quality of Life)」を重視してのものである.同省は,カリフォルニア電力危機の教訓等を踏まえつつ,一方的な「更なる自由化」オンリーの発想に対して,「エネルギー」分野でも,同様の,毅然としたアンチテーゼを示したペーパーを,2001年10月にWTO向けに提出している.我々は,こうした方向性が,ゴアのもともとのGII提案(J・F・ケネディのかつての国連総会演説にまでさかのぼる正しい理念)と共通するものであることを,深く認識すべきである.

 さて,既述のITUの専門家会合だが,残念なことに,日本政府からの参加者はゼロ.かつ,参加した日本の主要メーカーの側からは,「メイキング・マネー」の言葉しか発せられなかった.何たる認識の低さかと,私はあ然とした.

 それだけではない.何とアメリカの元NSA (National Security Agency: 国家安全保障局)関係者とITU事務局サイドとが,「コラボレーション」と称して,とんでもない内容のペーパーを事前に提出し,内海事務総局長のイニシアティブ自体をつぶしにかかったのである.そのペーパーの内容は,「電子認証」問題に焦点を絞ったものであった.今後の「認証」パラダイムを二つに分け,国際的な契約のネットワークで外部に閉ざされた認証パラダイム(Bounded Paradigm)が主流になる,との前提の下に,次のような主張をしていた.すなわち,契約の効力が各国でそのとおりにエンフォースされることが最も重要であり,Bounded Paradigmにおいては,国際的な「相互運用性(interoperability)」はさして重要ではない,云々とそこにあったのである.

 その限りでは,それに(漠然と?)同意する人々も多いのかもしれない.だが,こうした主張をする実際上のねらいがどこにあったのかを,そのペーパーに即して詳細に検討した後においても,それに同意できるかが,まさに本号の「フォトニックIPネットワークは人類の幸せのために」との特集のタイトルとの関係で,問われるべきである.上記の「(元)NSA&ITU事務局」という,いかにもアンバランスな 「コラボレーション」によるペーパーのねらいは,「社会安全」重視の欧州諸国,特にドイツやイタリアの「電子認証」関連の政策を批判し,規制を最低限とするアメリカの,いわゆる「ミニマリストアプローチ」を取るべきだ,とする点にあった.EUレベルでも,電子認証業務自体への参入障壁は設けないが,サービス提供上の技術標準のレベルを上げ,それを政府が推奨する,とのドイツ的アプローチが取られるに至った.ドイツは,いち早く閣議決定で,「社会安全」重視の方針を打ち出し,そしてそれをEUレベルの政策にまで定着させることに,成功したのである.

 ところが,上記の「(元)NSA&ITU事務局」のペーパーでは,ドイツ的な技術標準(プラス「サービス提供上の標準」)は「擬似規制」だとして指弾され,かつ,ITUを含む国際標準化団体は,契約オンリーのBounded Paradigmに干渉するな,とのロジックによって,その種の国際的な de jure 標準化作業に対しても,ネガティブな姿勢が示されたのである.私は,猛然とそれに反発したが,折り悪しく欧州大陸諸国プロパーの人々がOECDの会議に出ねばならぬ時期に,このITUの会合が設定されていたこともあり,所詮は多勢に無勢,といったところであった.日本政府からの何のサポートもなかったことが,つくづく惜しまれる.

 ここで示したのは,単に一つの国際会議における出来事である.だが,そこに既にして渦巻く,非常にどろどろとした国際政治絡みの暗闘は,明らかに「人類のために」今何が必要なのか,との基本的発想とは逆方向のものである.技術サイドの人々が,そこから何を読み取るかが,私にとっての重大なる関心事なのである.



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