(2) 「公正競争論」の陥穽 ――「国内」と「国際」双方について

 さて,ここで,「公正競争論」の陥穽について,一言しておこう.現状において,いわゆる「公正競争論」は,情報通信サービスの提供者側,つまりは「サプライサイド」の行動を規制することに,ほとんど終始している.その基本的前提は,市場において公正な競争が行われれば,消費者等の「デマンドサイド」側は,そこから「間接的」に利益を享受し得る,とするものである.だが,そこにおいて,真の「技術の視点」ないしは「技術革新」の観点が,果たしてどこまでインプットされているのか.そこが,大きな問題なのである.

 具体的な例を出そう.ADSL事業者の事業展開をNTT東日本が阻害することのないように,との内容の警告が,かつて公取委から出された.だが,旧郵政省内で日本型ADSLの実現のために,「ラインシェアリング」実施のための検討が世界初の試みとしてなされ,その試験サービス中の出来事に対して公取委がクレームを付けた,というのが実際のところである.ADSL用に従来の銅線とは別に加入者宅まで線を引くのでは,加入者への種々の負担が大きく,それは避けるべきだとの政策決定の下での,世界に先駆けての試験サービスの実施である.当然,一芯の銅線内部での周波数の「干渉」が問題となる.それを解決せねばADSLをやみ雲に顧客に勧めるわけにはいかない.こうした試験データの積み重ねを行っている最中に,そして本格サービス実施の数日前に,なぜ公取委が動いたのか.詳細は別途明らかにするが,公取委の行動は実に不可解なのである.しかも,公取委は,2000年6月のある報告書で,加入者回線の光ファイバ化は,銅線ネットワークを前提とするADSL事業者の事業に大きな影響を与えるから,というだけの理由で,加入者回線の光ファイバ化に,事前にクリアすべき条件まで付けた.このことからも,公取委が「サプライサイド」の競争にばかり光を当て,日本が将来どんな社会を目指すべきなのか,という視点が,その行動に十分インプットされていないことを,明らかとなし得るはずである.

 そもそも現状の公取委の活動には,「時間軸」が欠落している.つまり,「今が今」の競争をどうするかを論ずるのみであり,それで良いのかが,大きな問題なのである.だが,問題の根は更に深い.「時間軸の欠落」は日本の近代経済学をほとんど支配する「新古典派経済学」自体の問題だ,とさえいえる.しかも,驚くべきことに,「新古典派経済学」においては,非常にしばしば(数値化できないからという理由により)「技術革新」のファクタをゼロとする,等の非現実的な議論が,何とテレコムについてもなされている.この点など,日々の研究開発に取り組む研究者への侮辱ともいえるが,なぜ技術サイドからのリアクションがないのか,私には不可解である.

 

<  用 語 解 説 >


 新古典派経済学  日本の近代経済学の主流を占める学派.だが,アマルティア・セン(1998年ノーベル経済学賞受賞)をはじめとして,倫理的・社会的側面を重視する学派のあることに注意.

 

 ところで,そもそも「競争政策」,つまり「公正競争論」は,国策全体の一部分でしかない.そのことはIT基本法3条〜9条の「基本理念」の諸規定からも,明らかである.だが,現実には,「競争政策」がすべての他の政策を従えるかのごとき構図が,築き上げられつつある.これは,そもそも不健全極まりないことである.しかも,この傾向は,日本国内のみの現象ではない.OECD(経済開発協力機構)の事務局及び競争法・政策委員会が,特に2001年春以来こだわり続けていることでもあり,かつ,それが2001年11月以来本格化したWTO次期交渉にも,暗い影を落としているのが現実である.

 しかも,そこでいう「競争政策」の語には,大きなゆがみが伴っている.貿易・投資の「更なる自由化」の中で説かれる「競争促進」とは,実は,「外国からの参入」の促進ということなのである.そのことへの無理解が,日本国内の「公正競争」論議にも,深刻な混乱をもたらしているのである.本稿で既に述べた,変説後のゴアの,そしてアメリカの主張と対比すれば,この構図が,幾分かは分かりやすいものとなるであろう.日本のNCCsやADSL事業者等は,巨人NTT(グループ)の解体こそが日本のIT推進への最短距離だという.実は同じことは,アメリカもいっている.だが,アメリカ(そしてその背後に隠れるイギリス)の真のねらいは,テレコム分野での米英の主力企業が日本に一層の本格参入をし,市場シェアを奪い取る上で邪魔な存在たるNTT(グループ)を日本国内の「公正競争論」によって「自壊」させることにある.「その他」の日本の事業者は,既に顕在化してきているように,国際的な企業買収のターゲットにすぎない.だが,そこでも,問題の核心は,「アメリカのもの」であった従来のインターネットの核心部分についてまで,次々となされる,日本(NTT)の革新的技術開発(その源!)を抑え込むことにあるのである.フォトニックIPネットワーク関連を含めた最先端の技術者層において,このような国際的動向がどこまで理解されているのか.そこが大きな問題である.


■3. 国際標準化とセキュリティ問題


 (1) 国際的な de jure 標準化の戦略的重要性

 これまた忘れ去られて久しいことだが,1988年の電気通信技術審議会答申(「通信方式の標準化に関する長期構想」)の存在に対して,我々は今一度目を向けるべきである.そこでは,NTT,そして(当時の)KDDの技術先導性に着目し,ITUにおいて更なる国際的な de jure の標準化作業の推進を,国策としてもサポートすべきだ,との正当な見方が示されていた.だが,いつのころからか,正式の de jure 標準よりもデ・ファクト標準の方がはるかに重要だ,との風潮が急速に高まり,それが今日にも及んでいる.

 私は,この(後者の)理解はおかしいと,叫び続けてきた.その理由の一つには,WTO設立前のGATT(関税と貿易に関する一般協定)の時代から,いわゆるスタンダード協定(「貿易の技術的障害[Technical Barriers to Trade: TBT]に関する協定)があり,(純粋なサービスに対してはいまだ直接的なその適用はないものの)そこで国際標準遵守義務が定められているからである.国際的な de jure 標準があれば,それに基づいて各国の国内標準も作成せよ,というのがこの協定の基本である.それとずれた国内標準は,他国との貿易摩擦の火種になる.そうならぬための予防策として考えただけでも,国際的な de jure 標準の取得は,大きな意味を有する.まして「人類の幸せのために」将来の情報通信の高度化を考えるならば,国際的な de jure 標準の有する「南北技術移転」の意味合いにも着目せねばならないはずである.どう考えても,「デ・ファクト重視,de jure 標準軽視」的な考え方は,おかしいはずである.両者のすみ分けは考えるべきだが,国際的な de jure 標準重視の基本的政策は,変えるべきではない.この点で,ITUにおけるG3ファクスの国際標準化に関する日本の官民の一致した国際貢献の偉業は,インターネット全盛の今においても,十分に語り継がれる必要があるはずである.そして,既述の,ITUにおけるFTTH国際標準化(1998年)も,その延長線上における快挙なのである.

 ところで,旧工業技術院サイドでは,2000年5月29日に「21世紀に向けた標準化課題検討特別委員会報告書」が出され,それを受けて,改組後の日本工業標準調査会において,2001年9月6日に,明確な「標準化戦略」が打ち出された.ISO(国際標準化機構)における戦略的活動がその軸となるが,それだけではない.とかく「サプライサイド」に偏りがちな国際的議論(既述)とは明確に一線を画し,ISOの消費者政策委員会(COPOLCO)の活動を重視し,「デマンドサイド」・「サプライサイド」双方の調和において,日本としての国際的な de jure 標準化への戦略を明確に示すことが,そこでなされているのである.



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