最初に1998年3月に行った名古屋大学最終講義の講義録,「研究生活における思い出の出会い」から,シャノン博士の項を引用する.

 当時のMITは情報理論研究のメッカであり,数多くの優れた教授がおられたので,その先生方の御紹介をこの機会にしておこう.その最初に登場頂くのにふさわしい方は,やはり情報理論の創始者で当時MIT教授であられたシャノン教授であろう.昭和37年9月にMITの門をくぐったとき,近い将来に授業や打合せで必ずやシャノン教授の拝顔の栄に浴する機会があるものと,胸を高鳴らせて期待していた.

 当時MITの研究室では,夜9時ごろになると掃除夫(janitor)がやってきて研究室の掃除をする.多くは発展途上国の出身者で,丸太ん棒のように太い腕をした巨漢が,“Good Evening, Sir.”と言って部屋に入ってくる.それを機会に,掃除の邪魔にならないように勉強を切り上げて帰宅すべく,退出することにしていた.

 9月の授業開始後しばらくすると,MITの廊下で時々異様な風体の老人に出会うのに気が付いた.小柄でごま塩の頭を無造作に分け,よれよれの服を着ていて眼光だけが異様に鋭いその老人は,どうみても教授とは見受けられない.かといってMITの廊下は不特定多数の通行人が通るところではない.何をする人だろうと不思議に思ったが,あの風体からするときっと夜間にやってくる掃除夫の監督者か何かであろうと思っていた.そしてMITでの最初の一学期が過ぎて,2月から後期の授業の開講を迎えた.シラバスをみると後期には,あの有名なシャノン教授のAdvanced Topics on Information Theoryという授業がある.これこそ必修の授業であるから是非取りたいと,アドバイザーのウォーゼンクラフト(Wozencraft)教授に相談すると,それではクロードのところにいって許可をもらってこいという.これでいよいよ待望のシャノン教授に初めてお目にかかれると,高鳴る胸を抑えてProfessor C.E. Shannonの表札のある部屋をノックした.中から“Yes”の返事があり,サッと部屋のドアを開けて驚いた.何と部屋の主はあの“掃除夫の親玉”であったのである.思わず,“廊下で失礼な振舞いをしないでよかった.”と胸をなでおろしたのであった.

 シャノン教授の名誉のために申し添えておくが,後年(1985年)イギリスのブライトンでのIEEE情報理論シンポジウムにシャノン教授が出席されていたが,教授は髪をきちんと分け,瀟洒な服装をしておられ,まさに情報理論の創始者にふさわしい貫禄を示されていた.私が最初にお目にかかった1963年当時,シャノン教授はガラガー教授や学生だったベールカンプ氏と一緒にランダム符号化限界の延長の仕事をしておられ,その仕事への集中のために,服装に無頓着であられたのであろうと推察している.

 このようにシャノン教授との出会いは全く思いがけないものであったが,このときのAdvanced Topics on Information Theoryの講義はいわゆるセミナー形式のもので,学生がそれぞれ自分の専攻したい分野の文献を読んで,それを紹介するというものであった.私はちょうどその時分にピーターソン教授の“Error Correcting Codes”の本を読了したところであったので,その中のBCH符号の復号法について講演した.それが英語で行う初めての講演であったのでまだ不慣れで,事前にリハーサルを行っておいたにもかかわらず,本番では予定の時間より10分ほども早く終ってしまい,“すみません.”とおわびした記憶がある.最後にシャノン教授が講演されたが,それは暗号についてのもので,米国の暗号について話をするわけにはいかないからと,ドイツのエニグマ暗号について講演されたのであった.シャノン教授は当時も暗号に関する御興味を持ち続けておられたのであろう.

 私の専門は符号理論であったから,シャノン博士の御業績で最も関心の深かったのは当然“雑音のある通信路における符号化定理”であった.最初にこの定理に接したのは昭和34年に大学院に入学したときの,瀧保夫先生のセミナーと,計数工学科で行われた喜安善市先生の講義においてであった.当時はその結果は現実と余りにかけ離れており,それは一つの理論限界で現実はまた別のものであると思っていたが,現在では数々の優れた手法によって,現実がその理論限界に0.5〜1.0dB程度に接近しているようである.これはまさにシャノン博士以後の情報理論の発展を如実に物語るものであろう.



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