電子情報通信学会会誌

Vol.85 No.8 pp.576-579
2002年8月

長岡浩司 正員 電気通信大学大学院情報システム学研究科
E-mail nagaoka@is.uec.ac.jp

The Past and Future of Quantum Information Sciences.
By Hiroshi NAGAOKA, Member(Graduate School of Information Systems, The University of Electro-Communications, Chofu-shi, 182-8585 Japan).




量子情報科学の来し方行く末




 現在ブームともいえる活況にある量子情報科学の成立過程を,様々な学問領域の交流の歴史に焦点を当てながら解説する.また,現在のブームの持つ性格を分析し,将来に向けての提言を試みる.

キーワード:量子情報科学,量子情報理論,量子計算理論

 

■1. 寓     話


 まずは,量子力学(Q)と物理学(P),数学(M),情報科学(I)をめぐる寓話風の物語から始めよう.


 Q世界への入り口はP国の人たちによって発見された.当初,その入り口に至る道のりはひたすら険しく,P国で厳しい修練を積んで初めてその旅を全うすることができた.必然的に,Q世界ではP国の言葉が共通語となった.また,P国で発達した高度の文明は,謎に満ちたQ世界の風土を理解し,そこに新しい文化を築いていく上で不可欠の要素でもあった.

 その後,時の経過とともに,新しい文化が少しずつQ世界にもたらされるようになった.特に,P国と並ぶ巨大国家であるM国は,P国がQ世界にかかわり始めた当初からQ世界に関心を抱き,あるときはその独自の技術でP国のQ世界開拓を助け,またあるときは,P国がQ世界から持ち帰った未知の素材を基に,M国の誇る名匠たちの手になる世にも美しい芸術作品を生み出してもいた.Q世界の中には,P国やM国の多様な文化に対応して様々な町が築かれるようになった.

 当時世間では,Q世界へ至る道は険しく,Q世界自体の風土も厳しいので,P国やM国で専門の訓練を受けた者でない限り,Q世界に入り,そこで生活することは容易ではない,というのが専らの風評だった.しかし実際には,P,M両国の開発したルートをうまく利用すると,案外簡単にQ世界に入ることができるようになっていた.このことに気づいた第三国の人間が,Q世界にちらほらやってくるようになった.

 新興国家でありながら時代の流れを受けて急速な成長を遂げたI国からも,Q世界に移り住むようになった変り者たちがいた.Q世界の中に,I国と似た風景を持った広大な未開拓地域「Iバレー」が広がっていたのだ.Iバレーにはまた,自国の伝統にはないI文化の新鮮さにひかれたP国やM国出の旅人たちも流れ着いてきた.移住者のうち,ある者はそこに自分たちの文化を受け継いだ町を作りたいと夢想し,ある者はQ世界の資源を祖国の発展に役立てたいと思い,またある者は大国の影響が及ばないIバレーでの自由をひたすらおう歌した.Iバレーへの移住者は少しずつ数を増し,やがて幾つかの集落を形成するようになった.もっともそれらの集落の中には,ひとときそれなりに栄えたものの,やがて住民がいなくなってゴーストタウンと化したところもあった.

 総じてIバレーへの移住は緩やかに進行した.I国から見ればQ世界は相変らず遠く,直接的な利害が絡む可能性はまずなかったし,P国やM国から見ればIバレーは辺境の地に過ぎなかったから,わざわざIバレーの荒野に身を投じるのは,やはり少数の変り者に限られた.移住者たちは,時に少数者の悲哀を味わいつつも,勝手気ままに町作りを楽しみながら日々を過ごしていた.

 そんなIバレーに,ある時期から大量の移住者がやって来るようになった.Iバレーに金が埋まっている,というニュースが世界中に伝えられたのだ.これに呼応してQ世界への道はより一層整備され,もはやそこへ入っていくために特別の準備も覚悟も必要とはしなくなった.P国からもI国からも,あるいはその他の様々な地域から,アンビシャスな若者たちが続々とIバレーにやってきた.母国からの多大な資金援助にも恵まれて,時に先住者の知恵を借りながら,新たな移住者たちはものすごい勢いで町作りに励み,あっという間に小都会が出来上がった.都会ができると,廃虚寸前の集落の人口も増え,またそれまで互いにほとんど行き来のなかった集落の間にも人的・経済的な交流が生まれるようになった.Iバレー全体が好景気に沸き,住民たちは,時に後ろ盾のP国やI国のことも忘れて,そこを一つの独立国のように思うことさえできた.当分の間,この「国」は今の勢いで発展を続けることだろう.


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