■2.量子情報科学「ブーム」について


 上記の寓話は,物理学及び数学の立場からの研究が大半を占めていた量子力学の世界において,計算,通信,情報量,暗号,統計的推測などを論じる「量子情報科学」の研究が少しずつ行われるようになり,更にある時期以降,急速に研究者人口が増えてブーム(注1)の様相を呈するようになった経緯を述べたものである.

 「金が埋まっている」に相当するニュースは,実際には複数の研究成果がある程度の時間的広がりをもって物理学や情報科学の世界に伝わっていったものだが,その中で最も人目を引き,ブームのけん引役となった事件が,量子計算機によって整数の因数分解及び離散対数問題が高速に解けることを示したP. Shorの発見(1994)である.この発見は,計算理論以外の領域には直接的な寄与を成したわけではないが,その(RSA暗号の安全性などに絡む)社会的インパクトによって量子情報科学全体を取り巻く状況を大きく変化させ,多種多様な領域が相互に刺激し合いながら全体として一つの大きなムーブメントを形成するきっかけを作った.その意味で,現在の量子情報科学ブームを「Shor以降の」と形容することは不自然ではないだろう.

 そのShor以降のブームのさなかにあって,今,量子情報科学の世界はまばゆいばかりの光を発している.その光によって照らし出される様々な光景については,本小特集の諸記事を御覧頂きたい.そこでは,量子力学の中に新しい工学的可能性を探る試みの数々に触れることができるだろう.一方,光が強ければ強いほど,その周囲は陰となり,光に照らされた部分だけが暗やみの中に浮かび上がっているかのような錯覚を呼び起す.そこにはブームというものの持つある種の危険性がある.実際には,陰の部分に隠れがちなShor以前の物理学,数学,情報科学の蓄積と相互交流こそが光の部分の土台を形作っているのであり,そこに目を向けなければ,量子情報科学という学問の真の姿も,ブーム現象の本質も見えてこない――これが本稿の主旨である.


■3. 量子情報科学ブームの成立要因


 量子情報科学ブームの成立に寄与した幾つかの歴史的要因について具体的に述べてみよう.ただし,情報理論,計算理論,暗号,統計的推測などに関する古典情報科学の蓄積と成熟,実験物理学の進歩が果たした(かつ果たしつつある)意義など,その重要性にもかかわらず誌面の都合上触れることができなかった事項も多い.

 3.1 量子力学が易しくなったこと

 量子情報科学と聞いて,物理を専門に勉強したことのない自分には量子力学など難しくてとても無理,と考える読者も多いだろう.しかし実際は,量子情報科学の理論的研究で用いられる量子力学の数学的体系は極めてコンパクトなものであり,線形代数と確率論に関する基本的素養があれば,短期間での修得も決して難しいことではない.大ざっぱにいえば,有限集合{1,...,n}を複素線形空間に,{1,...,n}上の確率分布(,...,)をn×nの密度行列(半正定値かつトレースが1のエルミート行列)に,{1,...,n}上の置換をn×nのユニタリ行列に,というように,有限集合上の様々な確率論的・組合せ論的概念を対応する線形代数的な概念に置き換えていくだけでよい.この事実(寓話の中で述べた「Q世界への整備された道」)が多くの人によって認識されるようになったことが,量子情報科学ブームを支える大きな要因になっている.

 量子力学のエッセンスを易しく提示するためのキーポイントは,「量子」に対比させるべき「古典」を,古典力学ではなく,確率論だと位置付けることにある.このような意味での量子力学は非可換確率論とも呼ばれ,量子力学の完成(1925前後)から程なくして書かれたvon Neumannの「量子力学の数学的基礎」(1932)の中に,既にその基本的枠組みを見て取ることができる.

 量子力学が易しい,という言明には幾つかの注釈が必要である.まず,確かに量子力学の体系自体は易しいが,その体系を現実の物理現象に適用し,そこから何らかの定量的・定性的な結論を引き出すことは,大抵の場合,難しい.物理学としての量子力学を学ぶ際には,こうした難しさに対処するための様々な物理学的アイデアや数学的解析手法を修得しなくてはならない.一方,量子情報科学の理論的研究では,その対象は具体的な物理系ではなく,量子力学に従う「一般的な」物理系,あるいは量子力学の数学的体系そのものであるため,そうした物理学的な難しさには立ち入らないで済む.

 量子力学には,純粋に数学的な難しさもある.これは主として,上述の上の量子力学を無限次元のヒルベルト空間や作用素代数上の理論に拡張しようとする際に生じる.このような拡張は,確率論でいうと,有限集合上の確率から確率密度関数や一般の確率測度へ,更には確率過程や確率場へという拡張に相当する.しかしちょうど,シャノン流の情報理論の主要部分が有限集合上の確率で記述されるのと同様に,量子情報科学の研究では,多くの場合上の量子力学で事足りる.

 量子力学にはまた,状態と測定(観測)に関する様々な概念的難しさがある.この点については,むしろ情報科学的研究においてこそ,しっかりと理解しておく必要がある.こうした概念的理解を得る上でも,余計な難しさが入り込まないの量子力学から出発することはとても教育的である.(伝統的な量子力学の教科書の多くは,この点で必ずしも満足のいく説明を与えていない.)



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