3.2 量子相関の不思議さ

 前項とも密接に関係することだが,量子力学の概念的理解がクリアになればなるほど浮かび上がってくるのが,量子相関(エンタングルメント)の不思議さである.Shor以降の量子情報科学ブームの中で,エンタングルメントは最重要のキーワードとされ,その不思議さを味わうこと自体が目的化しているような印象さえ覚える.量子相関の不思議さは,もともと,二重スリットによる物質波の干渉をはじめとする量子力学の不思議全般にかかわっており,量子力学の正当性の検証や原理的基礎付けを目指す「観測理論」の中心課題の一つでもあったのだが,特にそれをクローズアップしたのが,量子力学の体系的不備を指摘すべくEinstein-Podolsky-Rosen(1935)によって提出されたいわゆるEPRパラドックスである.このパラドックスが,古典力学的(あるいは古典確率論的)世界認識において半ば無意識的に仮定されていた「実在の局所性」と真っ向から対立する要素を含んでいることがBellの不等式(1964)の議論によって明らかにされ,更にAspect et al.(1982)によって実験的に検証された.こうした物理学上の成果の蓄積は,量子力学の原理に対する心理的抵抗を薄れさせ,むしろそれがもたらす不思議さを積極的に味わい,更にはそこに何か新しい工学的可能性を見いだそうという,量子情報科学ブームの基調を成す考え方につながっていく.

 3.3 数学的研究からの恩恵

 線形作用素(行列及びその無限次元版)を扱う数学の分野に作用素論及び作用素代数論がある.これらの分野は,量子力学や量子統計力学との交流を通して高度の発展を遂げてきた.そうした流れの中で,後に量子情報科学の理論研究にとって必須の道具となる幾つかの成果が生み出された.代表的なものとしては,量子力学的時間発展(状態変化)を特徴づける数学的概念である完全正写像とその表現定理(Stinespring 1955,Kraus 1974, etc.),量子相対エントロピーとその単調性(Umegaki 1959, Lindblad 1975, Uhlmann 1977, etc.)が挙げられる.また(1934)に始まる作用素単調関数,作用素凸関数に関する理論も重要である.これらの結果は,証明は決して易しいものではないが,結果自体は簡明な形をしており,今日我々はそれらを当たり前のように利用させてもらっている.数学者が数学的立場から行う研究というものの意義を改めて感じさせてくれる成果である.

 3.4 ブーム以前の量子情報科学:その1

 初期の量子情報科学的研究としては,1950年代〜60年代前半にShannon (1948)の情報理論に触発されたパイオニア的な仕事が幾つか成されたが,60年代後半になると,上述の数学の立場からの研究と並行して,Helstromに始まる量子状態の統計的推測理論やHolevoに代表される量子通信理論(Shannonの通信路符号化定理の量子版を目指したもの)のような明確な方向性を持った研究が現れた.そこでは,古典的な統計学や情報理論の問題設定の様式を基本的に踏襲し,その中で自然に浮かび上がってくる量子系特有の概念や数学的深さに注目する.詳細は以降の各記事を参照されたい.

 3.5 ブーム以前の量子情報科学:その2

 上記の「その1」で述べたテーマは現在のブームの中でも活発に研究されているが,当時の研究活動自体は,70年代後半以降いったん下火となった.(筆者は1990年,情報理論の国際会議で量子推定理論の発表をした折にHelstromに会ったが,自分は既にこの分野からは撤退したといっていた.)一方,80年代半ばごろから行われたBennett, Brassardによる量子暗号の研究やDeutch, Jozsaによる量子計算の研究などは,テーマも活動もそのままShor以降のブームにつながっていった.これらの研究は,「その1」の研究に比べてより思弁的(speculative)な色彩が濃く,数学的な深みよりはアイデアの新しさを重視する傾向が強い.古典的な理論体系に規範を求めることも少なく,その分,良くも悪くも伝統から自由だった.こうした研究のルーツを探っていくと,70年代から80年代初めにかけて行われた計算の物理的限界に関する一連の考察(Fredkin, Toffoli, Landauer, Bennett, Feynman, etc.)が浮かび上がってくる.筆者自身の関心は専ら「その1」の系譜に向いていたため,こちらの人たちの当時の動向には余り詳しくないのだが,上で名前を挙げた以外にも量子力学の原理的諸側面に関心を持つWootters, Zurek, Caves, Yuenなどがいて,相互に交流していたようだ.こうしたオープンかつ緩やかに結びついた研究者集団が徐々にその範囲を拡大し,90年代に入ってから,一方でShorやYaoなどの計算理論の専門家と交流し,他方でSchumacher, Westmoreland, Fuchs, Braunsteinなどの物理出身で情報理論にも関心を持つ若手研究者達を引き寄せ,やがて爆発的なブームを引き起す母体となった.

 3.6 Holevoの軌跡

 ロシアの数学者Holevoは,主として1970年代に上記「その1」で述べた量子状態の統計的推測理論と量子通信理論の双方に決定的な足跡を残した偉才である.特に後者については,理論の骨格をほとんど独力で作り上げ,量子通信路符号化定理にあと一歩のところまで迫りながら,そこで越えがたい壁にぶつかってしまった.80年代に入るとこれらの研究から徐々に方向転換し,量子確率過程や量子測定に関する数学理論に力を注ぐようになった.彼は当時旧ソ連に属していたから,米国を中心とする「その2」の集団との交流はほとんどなかっただろうし,「その2」の方でも情報理論的・統計学的な方向性はまだ現れていなかった.しかし90年代に入ると,JozsaやSchumacherたちがvon Neumannエントロピーの符号化定理的な特徴付けについて考え始め,その過程で標準部分空間という概念の有効性を認識するようになる.その認識がHausladen et al.(1996)による純粋状態通信路の符号化定理の証明につながり,更に箱根の学会でその証明に接したHolevoは,直ちに,長年自分の前に立ちはだかってきた壁が標準部分空間の導入によって取り払われることに気づいた(注2).Holevoが量子情報の世界に舞い戻ってきた瞬間である.



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