■4. 量子情報科学の将来に向けて


 学問におけるブームというものは,一種の異常現象でもある.それは研究に新しい活力を与え,予期せぬ発展を導く一方で,玉石混交の研究成果の洪水によって多くの混乱をももたらす.現在の量子情報科学ブームが今後どのような経緯をたどり,その過程でどのような成果を生み出していくのか,筆者にはとても予測などできないが,ここで注意しておきたいのは,量子情報科学そのものはまだ始まったばかりの未熟な学問分野(の集合体)であり,現在のブームで論じられている内容だけでその将来を判断するのは危険だということである.

 量子情報科学ブームの本質は,それまで個々の研究者がそれぞれの立場で行っていた研究の総体が,Shorの発見を契機として,一つの学問領域としての体裁をとるようになったという点にある.そうした統一性は,研究者たちが一連の約束事(パラダイム)を暗黙のうちに認めることで成立した.約束事の存在は研究の生産性を高め,研究者人口の増加を促すが,一方で研究の画一化をもたらし,約束事自体への反省を妨げるという側面を持つ.

 そもそも現在量子情報科学で扱っているテーマのほとんどは,その意義や実現可能性に関して多くの不確定要素を含んでおり,ブームの中で広まっている約束事も,実は多分に作業仮説的な性格を有している.そのこと自体が悪いというわけではないが,そのような約束事を大多数の研究者が自明のことのように前提とするようになると,いろいろな意味で危険性も生じてくる.特に,既存の工学理論のパラダイムをそのまま量子系に当てはめることの正当性や研究上の意義については様々な考え方があるはずだが,現状では,他人の敷いたレールを無批判に踏襲する傾向が目立つ.個々の研究者がもっと自分固有の判断基準や問題意識を持って研究を進めるべきではないだろうか.また,「易しくなった量子力学」(3.1)の中だけで閉じた議論の限界についても検討が必要である.実験物理学者とともに,量子力学の「物理学的難しさ」に精通した理論物理学者の参入を期待したい.

 ブームの最中には,競うように咲き誇る花々のみに目を奪われがちだが,それらが実を成し,種を残すためには何が必要かという視点を忘れてはなるまい.また,お花畑から少し離れたところに咲いている小さな花の美しさを見逃さない心の余裕も持ちたいものだ.

 最後に,研究者を目指す若い人たちに僭越ながら一言.もしあなたが現在量子情報科学の研究をしていて,かつそれ以外に本格的な研究活動をした経験がないならば,現在のテーマを追求しつつ,ぜひ自分の属している伝統的学問分野の素養をしっかり身につけてもらいたい.現在のブームが一段落し,量子情報科学とは一体何なのか,という問いに改めて直面したとき,そうした素養がきっと役立つと思う.



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