■3. 発見の核心に迫る

 3.1 試料調整とイオン化
 さて,いよいよノーベル賞受賞をした発見に関する核心部分です.私たちが研究を始めた1980年代よりずっと前から,レーザ光に限らず光エネルギーを用いて有機化合物をイオン化する研究が様々行われていました.しかし,その多くは気体状態になっている,既に気化している化合物から電子をはぎ取るということによるイオン化がほとんどでした.分解せずに気化できる化合物はもちろん限られています.イオン化できる化合物はごく少数でした.レーザを固体の有機化合物に照射しますと,有機化合物がレーザ光を吸収し脱離(Desorption),それに十分なエネルギーを得,かつその粒子が正負の電荷のバランスが取れていない場合はイオンとして測定される.しかし,この場合,レーザ光が分析したい化合物に直接吸収されてしまうため,内部エネルギーが上昇し化合物分子結合の鎖が断ち切られ,分解した状態で測定される危険性が高まってしまう(図3).当時,レーザでイオン化できる化合物の分子量,化合物の大きさは大体1,000Da(ダルトン),そういう単位がつくのですが,分子量1,000程度であり,化学者の当時の常識からすれば分子量1万を超えるたんぱく質のような化合物のイオン化は不可能と考えて当然でした.

図3 固相または液相からのレーザ脱離イオン化Laser Desorption lonization(LDI)

図3 固相または液相からのレーザ脱離イオン化Laser Desorption lonization(LDI)

 しかし,私は化学の専門家ではありませんでした.そのような常識を意識していなかった.知らないものの強みですが,そういう場合もある.真理とか新しい発見に到達するためには,専門分野の知識をより多く学ぶことが通常の道筋であります.でも,それが常に正しいとはいえない.知識がないこと,欠点と思われることが利点になることも少なくないと思います.

 急速加熱技術ということについて御紹介します.1980年代,急速加熱による有機化合物の気相への脱離が注目されていました.この原理を簡単に説明しますと,図4のようになります.すなわち,ある化合物ABが加熱されて,ABのまま分解されずに気化する場合とAとBとに分解してしまう場合を想定します.化学で常識になっているアレニウスの式にそれぞれ当てはめて対数表示にしますと図4のようになるわけです.ここで熱的に不安定な分解が起りやすい化合物は,低温で反応速度KDKV よりも大きくなります.横軸は1/T ですから,右の方が低温というふうになります.気化のための活性化エネルギーEV が分解のための活性化エネルギーED よりも大きいことになります.この図で示しますように気化の傾きが分解の傾きよりも大きいことになります.これがいつでも正しいとしますと,温度1/T が小さい,すなわち高温で気化の方がより促進されることになります.すなわち,でき得る限り速く,でき得る限り高温に達することができれば,気化が優勢になるはずです.

図4 急速加熱技術
図4 急速加熱技術   気化Vaporization v.s. 分解Decomposition

 御参考までですが,アレニウスというのは1903年のノーベル化学賞受賞者であります.この式は100年以上前に考え出されたものです.こんな古い単純な式が最新の技術を生み出す鍵になるとは思えない.これがある種の常識です.でも,その常識にとらわれると新しいことを生み出す妨げになるのではないかという例であると思います.私は,この式が化学の常識であるとか,あるいは古典理論であるということを知りませんでしたので,知らないものの強みといいますか全く新しい新鮮な気持ちで対応することができた.いわば前情報なしにやるということがよかったという一例であります.



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